T2U音楽研究所~はてな置き場(旧:私を支える音楽と言葉)

T2U音楽研究所/臼井孝のはてな版です。

53・ケータイ“障害者”=私

 私は、平日は音楽マーケット分析をしたり、その深夜に音楽チャートに関する執筆をしたり、そして土日にCDの企画盤の選曲シミュレーションをしたり、CD店やLIVE見学に行ったり、と相変わらずスリリングで(苦笑)楽しい日々を送ってはいるものの、ここ数日ネガティブに心に引っかかる事象がある。以下に、書き出してみる。


その1:先日のLIVE見学で、オープニングゲストに出た女性モデルが、出演後VISITOR席に戻ってきたのだが、手早くそのLIVEを暗闇の中でデジカメで撮影し“今日はLIVEに呼ばれて出てきました(ハート)やっぱり、皆と一体になれるっていいね☆”みたいな文章(推定)を打ち始め(私の目線の先で画面を持ち上げていたので、見えてしまった)、さくさくとブログを更新し(推定)、15分ほどで足早に帰っていった。家に帰って確認したら、その方はアメブロのかなり上位にいらした。たった15分、しかもあれこれ操作しながら“一体感”を感じたのならば、凄いなと思うが、まず無理だろう。でも、それが彼女が唯一許される表現方法なのかもしれないなとも思った。


その2:そのLIVEでも、みんなでクライマックスに向けて盛り上がっている時に、ケータイで撮影している観客の様子が見えてしまうと、かなり興醒めになった。「隠し撮りはいけません」とか、そんな野暮を言いたいんじゃなく、皆で同じ方向に盛り上がっているところ、片手でコブシを挙げつつ、もう片方の手でケータイを握り、目線はレンズ越しというスタイルで、十分昂揚できるのだろうか。(こういう人を見ると、崖っぷちで落ちようとしている友人を助けるよりも、落ちた瞬間を撮影する方に、自分の手を差し伸べるように想像してしまう。) 映画館の裏から舞台挨拶を終えて出てきた俳優に対しても、最近では約半数の人がケータイで即撮影に。たった2,3秒でもケータイ・マスターならば良い写真が撮れるのだろうか。もし撮れたとしても、私がファンだったらレンズ越しじゃなく、絶対にこの目で、その瞬間を見ていたい。


その3:「着うた600万ダウンロードで、CDの15倍のヒット」と報じるメディアについて。600万ダウンロードのうち、大半がフル音源ではなく、45秒だということを知っているのか。それとも、45秒で好きな人と、その楽曲まるまる1曲+カップリング+ジャケットやその他ビジュアル周りのアートを支持する人の熱量が同じとでも思っているのか。それぞれに適したヒット曲を、単純に比較したいならば、せめてフル音源のDL数で比較、あるいは売上金額に換算すべきだろう。


その4:本や映画、音楽など他のヒットにも大きな影響を与えているケータイ小説を後学の為にいくつか読んでみたが・・・どれも、暴行→自殺未遂→相手の記憶喪失→相手の薄命&死亡→妊娠発覚・・と、フックがてんこ盛りで、行間に浸っている余裕がない。昔から、レディコミとかトレンディドラマでもこの手はあったが、それらは事前取材や時代考証を済ませていて、それなりに学ぶ事も多かったのだが、このケータイ小説は、そういった部分は一切省略されていて、ショッキングな事象だけがただ並べられているような印象を持った。何でも便利になったから刺激が欲しいのか。それとも、仲間はずれにならないように、イジメにあわないように、急いで読んでいるのか。


 このように、最近私が「あれ??」と思うその大半が“ケータイ”に関することなのだ。もちろん、私自身、仕事依頼の大半はメールとケータイからで、大きく依存しているし、そういう行動を理解しなければ、今の音楽マーケットを理解できない要素もあるので、存在意義を否定する気はさらさらない。しかし、そういうのを見ていると、得てしまったものが多くなった分、失っているものも多いようにも感じて、やっぱり人間のキャパシティーは何千年経っても変わらないのかな〜、そこから逆算すると、いにしえの人たちは、今よりもずっと感情の機微を察しながら生活していたのかな〜、凄い人達だったんだな〜と想像する。


 まぁ、こんなことをイチイチ気に留めてしまう私は、立派なケータイ“障害者”だ。でも、こんなにある種の理解力が大きく欠如している人間でも、公私共に存在を認めてもらっていることを考えると、この国に、この時代に生まれて良かった、とも思うのだ。また、欠如していても、音楽に対する感受性は人一倍強いような気がする。むしろ、ケータイ能力が“欠如”しているからこそ強いのか。だとしたら、この“障害”もまんざら捨てたものではない。なんだか自分が自分であることが嬉しい(笑)。